DDとは何の謂ぞ

結論

  • DDといっても人によって事情も内容も違うよ。別に「誰でも大好きじゃなきゃいけない」縛りとかもないよ。
  • DDが非DD(含、単推し)より気が多い/個々への愛情が薄いという前提のロジックは乱暴
  • DDも単推しも単なる宣言なので気楽に「単推し」と宣言してるケースより「DD」と宣言している方が切実に愛情について考えている場合も。

自己紹介乙

「誰のファンですか」と聞かれた場合、自分は「ハロプロDDです」と答えるようにしている。

DDとは一般に「誰でも大好き」の略とされるものであり、実際自分はハロプロのメンバーがみんな大好きである。

じゃあどんな人でもハロプロのメンバーになれば大好きになるのかというとそういう訳ではない。たまたまこれまでのメンバーがみんな大好きだっただけで、今後苦手なメンバーも出てくる可能性はある。

ただ、苦手なメンバーが出てきた場合でも「誰のファンですか」と聞かれたらやはり「ハロプロDDです」と答えると思う。

結局、誰のファンなのかを判りやすく説明できず、仮に苦手なメンバーが出てきても殊更それを除外してアピールする必要性も感じられないため、方便として「ハロプロDDです」と言って乗り切っているというだけなのである。

自分はこんな事情でハロプロDDをやっているが、同じDDのカテゴリにいる人がみんな同じ事情かというとそんな訳はなく、様々な事情や思想の下でそれぞれの人が異なるDDをやっていることと思う。なのでDDを単一属性の集団とみなして何かを論じているのを見ると「乱暴だなぁ」と感じることもある。

とはいえ、自分が所属しているカテゴリには細かく拘るのに他人のカテゴリには無頓着で乱暴というのは自分も含めて良くあることなのでそれ自体は「そういうものか」と思うようにしている。

非DDとの関係

ただ、「DDは非DDと比べて気が多い(一途ではない)」「DDは非DDと比べて個々への愛情が薄い」という前提のロジックを目にしたときには「ちょっと待て」と。

DDに様々なバリエーションがあるのと同様、おそらく非DDにも様々なバリエーション、たとえば「Aさん推し→Bさん推し→Cさん推し」という変遷を経て同一時点では単推しではあるものの結局複数人のヲタをやっているケース、「グループ1ではAさん、グループ2ではBさん推し」と同一時点でも複数人の推しがいるケースなどがあると思う。

前者のケースでAさん推しのときに「Aさんが一番」と言っていたものがBさん推しのときに「Bさんが一番」となった場合、それは一途と言えるのか。それ自体は自然な行為で特に責めを負うものではないが、そのケースについて無条件で「DDより一途で愛情が深い」とは評価できないのではないか。むしろ移り変わっているのに「一番」と言っている点である種の不誠実さをはらんでいるのではないか。

後者のケースは「推している」という人数が違うだけで構造はDDと変わっていない。2人推している人が30人推している人より一途かというとそれはちょっと違うのではないか。たまたま推している人数が少なかっただけではないのか。「グループに対して1人」というルールを自分の行動指針として適用する分には構わないがそれをDDとの(一途さや愛情の深さに関する)差別化の理由にはできないのではないか。

では、前者/後者とも違う「過去から現在まで一貫してAさん単推し」というケースならDDよりも一途で愛情が深いと言えるのかというと、それも無条件で言えるものではないと思う。

DDでも積極的にラジオやテレビの番組を追いかけてライブも高頻度で参加する人がいるが、単推しによる活動でそれよりも薄いというケースはあり得る。それは「単推し」が熱量を表すものではなく単に「推している人数」を表している用語なので当然である。たまたま「Aさんにしか興味はない」という状態で結果的に単推しになっているだけで、Aさんへの思い入れ自体は千差万別だろう。

DDなのか単推しなのかも当人の宣言によるものであるため、『気楽に「単推し」宣言して気楽に推し変する人』と『「推し」の定義を厳密に考えて自身はそこに至らないという認識でDDと宣言する人』のようなケースも当然あり得る。

つまるところ何が言いたいのか

上記のようにDDも非DDも様々なバリエーションがあるので、ロジックを組み立てる場合は単純にDDと非DDで分けるのではなく個々の事情を鑑みて丁寧に論じるべきかなと。

軽い話題や単純化してカテゴライズした方が適切な話題などはもちろん「DD云々」という展開でよいが、意見の相違が発生し得る話題の時は対象カテゴリについてある程度の観察が必要だと思う。

スポンサードリンク