エイジズム/ルッキズムについてふんわりと書き綴る
感覚との齟齬が生じやすいエイジズム/ルッキズム
2025/02/11放送の「上田と女がDEEPに吠える夜」のテーマは「エイジズム」であった。
既に長い年月をかけて多くの人が研究し思考し議論を尽くしているものと思われるが、そういった経緯をまったく把握していない素人が個人的にふんわりと思ったことをここに書き留めておく。
まずエイジズム/ルッキズムは似たような部分で難しいところがあるように思う。
(あえて厳密に定義せずに挙げる)「若い」「美しい」という概念は社会通念上「良い」とされることが多い気がするが、エイジズム/ルッキズムの文脈ではかならずしもそうではない(「若い」は「未熟」という否定の意味でも使われるがここで取り上げるのは生き物として強い時期のこと)。
そのためエイジズム/ルッキズムについて会話している際に「これはエイジズム/ルッキズムの文脈上はあまりよろしくない観点である気もするけど、でも感覚としては否定しづらい」みたいな場面にしばしば遭遇する。
前述の番組の終盤でも若手の出演者に対してやはりキレイだしカワイイという話が出ていた。
「名付け」の功罪
特定の問題に対してエイジズム/ルッキズムという名前を付与したことにより詳細な部分が見えないまま議論できるようになったこともこの葛藤の原因のひとつであるような気がしている。
一般に「名付け」はそれまで認識しにくかった得体の知れない概念をまるっとまとめて認識し人々の間で流通しやすくする超絶優秀な機能である。
ただし「大きく異なるもの」「微妙に違うもの」「未だ解明されてないもの」などの多様な概念をある種暴力的にひとまとめにし、あたかも違いなどなかったかのように誤認させてしまう効果がある。
また、お絵描きツールのグリッド吸着機能のように「その名前の範囲に入りそうで入らないちょっぴり違う概念」を考えようとしても無理矢理「その名前の範囲」に人々の意識を吸着してしまう弊害もある。
さらに「わかりやすい」「わかった」という幻想も生む。
「名付け」の何が便利なのかというと「その名前の範囲」にある有象無象について都度考えなおすコストをばっさり切り捨てて対象を一塊のブロックとして扱えるようにしてくれる点にある。
つまり対象を一部ブラックボックス化して認識や流通の手間を削減しているのであり、対象と対象以外との関係(構造)について理解しやすくはするものの、対象の中身についての理解はむしろ埒外としてしまっている面もある。
名前の付いたブラックボックスを気軽に投げたり積み重ねたりして「これはわかりやすい」と錯覚しても、ブラックボックスの中身はブラックボックスのままであり何もわからない。
もちろんブラックボックスの中身について議論を深めていくこともあるが、名前だけが付いていて実体がないのに「共通認識」と錯覚した何かをずっと撫で回していることもある(たとえば「これってエイジズム/ルッキズムになるんですかね」という質問に一同が「うーん」と思案する画を見ることがあるがそれは参加者の間で名前が付いた実体を共有できていると言えるか否か)。
とはいえ「名付け」によってブラックボックスの外形がある程度定まることでブラックボックスの中身を深掘りしていく際の狙いはつけやすくなるしそこに参画する他者との対話はしやすくなる。
エイジズム/ルッキズムの解体試案
本来であればここで過去の研究や議論などを紐解いてエイジズム/ルッキズムの中身を見ていくべきだが、それをする余裕も興味もいまのところはないので先人によって既に考えつくされていたり否定されていたりする可能性のある愚見を開陳するに留める。
エイジズム/ルッキズムの(学術的な話題に対しての)大衆的な話題では年齢ベースの話や美醜ベースの話がまるごと忌避されがちだが、「名付け」によって埒外になってしまった対象の中身をここで解体して「何がよくないのか(何はいいのか)」をもっと明確にしたい。
個人的には以下の2点に絞って「よろしくないこと」とした方がよいように思う。
- 依存すること
- 個体を無価値とすること
「依存すること」とは
エイジズム/ルッキズムの文脈であっても「若い」「美しい」は忌避すべきではない気がしている。
「若い」「美しい」は生き物として強い状態であるが、生き物である人間が生き物として「強い」状態を礼賛できないというのは不自然であり歪であるように思う(「美しい」は社会的な価値観に左右されるところもあるが)。
ただしその「強い」状態を獲得するために執着し、社会的に弊害をもたらすような事態になるようであればそれは依存状態であるとして「よろしくないこと」とすべきであろう。
たとえば、コンプレックスを利用して高額の美容整形に誘導する、他者に「若い」「美しい」を強要する、などはこれに当てはまる。
「個体を無価値とすること」とは
ある個体が特定の切り口で「弱い」(たとえば「老いている」「太っている」など年齢や見た目上のマイナスとされる状態)となった場合にその個体自体を無価値とするのは「よろしくないこと」とすべきだと思う。
逆に、ある個体が特定の切り口で「強い」となった場合はその個体自体に価値があるとしてもよいし、「弱い」となった場合にその個体自体の価値が下がるというのはあってよいと思う。
あくまでも無価値すなわち存在否定はよろしくないという意見なので無価値にならない程度の低下は「強い」「弱い」の関係上当然あるものと考える(このロジックでいくと老いの自虐などはアリとなる)。
なお、ここではあえて「強い」「弱い」という語を使っている。
エイジズム/ルッキズムの文脈以外でも社会的な競争において「強い」「弱い」という表現を忌避する流れがあるように見受けられるが、個人的にはこれらの語を忌避すること自体が差別であるような気がしている。
生き物にはいろいろなところで「強い」「弱い」があるのが自然であり、それぞれの「強い」「弱い」を抱えながら個体として成立しているのが生き物であるように思う。
たとえば老いている者には「老いている」、太っている者には「太っている」という「弱い」事実は厳然として存在する。
「弱い」と評価すること自体を忌避するのはその人が「弱い」ことを暗黙的に個体の価値否定と結びつけてしまっているからではないか。
なんらかの形で個体の価値が成立しているのであれば当該個体に特定の切り口で「強い」「弱い」という評価をつけてもよい気はする。
「弱い」という評価をつらく感じる人もいると思うが、私個人の偏った見解では、「弱い」という評価自体を忌避するのではなく、「存在否定のために『弱い』と評価すること」「『弱い』と評価されたことで存在否定されたと解釈すること」を忌避する、という方向に持っていくべきだと思う。
総論
以上、エイジズム/ルッキズムについてよく知らない素人がなんとなく思いついたことを書き綴ってみた。
「名付け」については禅で言うところの魔境みたいなもので、当件に限らず強力で便利だからこそ微細な概念を暴力的に蹂躙して画一化してしまう可能性と「わかった気になりやすい」を「わかりやすい」と誤認してしまう点に注意したい。
そして「強い」「弱い」についてはあまりうまく説明できている気はしないが、暗黙的に存在する「部分的な良し悪し」と「個体の存在否定」との紐付けを分離し、差別から切り離された状態で「部分的な良し悪し」を自由に論じられるようにすることでエイジズム/ルッキズムの(大衆的な)話題における感覚の齟齬がある程度解消するのではないかという気がしている。